《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰...― 28 ―...

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京都精華大学紀要 第五十二号 29寿1 西2

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 29―

    

一、はじめに

江戸の庶民信仰は稲荷神や恵比寿神など幻像に近しい神霊のみを

対象としたわけではなかった。過去に生きた生身の人間を神仏とし

て崇めてきたのである。しかもその多くは高僧にて、平安の世に生

きた人物と、江戸の都市仏教を築いた人物をあわせて神格化する多

彩性を有していた。

そんな点景をしめす一文が、江戸中期の歌人で博学者・津村淙庵

の随筆『譚海』(寛政七年〈一七九六〉跋)に記されている。

両大師御番所、御門主にあたりたる月、本坊に故障あれば、

中堂前釈迦堂にせん座あり、黄昏に参りて聲名を聴聞すべし、

外にては夜陰に行るヽ事ゆゑ聞がたし、

七月十五日は、慈眼大師御廟参詣の日也、夜は三十六房の提

灯を供し、殊勝なる事なり、必まゐりて拝すべし1

(巻十三)

鈴 

木 

堅 

弘  

《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰

     

――

近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向

同文は、淙庵が叔父中西邦義から聞いた談話を書きとめた部分で

ある2。「両大師」とは、平安中期の天台高僧で「元三大師」の名で

知られた慈恵大師と、江戸初期に東叡山(上野・寛永寺)を開いた

慈眼大師こと「天海僧正」である。両者をまつる祭祀は、毎月、東

叡山寛永寺の子院にて輪番でおこない、本坊にて何か問題がおこっ

た場合、両大師像を根本中堂釈迦堂に遷座させるという。また両大

師詣では、人びとが黄昏ときに東叡山へ参り、声明に耳を傾けなけ

ればならないと記す。くわえて、野外での祭祀は、夜中におこなう

ために、坊僧たちの祈りの声は聞きがたいと記す。さらに毎年七月

十五日は慈眼大師(以下:天海)の御廟参詣日のために、寛永寺の

三十六坊の子院はいっせいに提灯を灯し、神妙なる雰囲気に包まれ

ながら、人びとは必ず参らなければならないという。

津村淙庵は町人出身ながら、若き頃より諸処の学問所を渡り歩き、

後年は上田秋成や大田南畝とも交友をふかめた。そんな当代を代表

する知識人が書きとめた一文だけに、十八世紀中葉、東叡山寛永寺

での両大師信仰の情景が眼前に浮かぶようである。

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 28 ―

他方、両大師信仰は、そうした江戸の庶民信仰の範疇のみに留ま

るものではない。その影響は江戸絵画にまでおよび、現在、寛永寺

に所蔵されている土佐派系幕府御抱絵師の住吉具慶による《元三大

師縁起絵巻》(延宝七―八年〈一六七九ー八〇〉:一巻・二巻・五巻)

3

と《慈眼大師縁起絵巻》(延宝七―八年〈一六七九ー八〇〉全三巻)

は近世前期の高僧縁起絵巻を代表する作品として高名である﹇図

1﹈。これらの絵巻については、美術史学の範疇において榊原悟氏4

や下原美保氏5による絵師の作画史に関する詳細な考究がなされて

いる。本論もそれら先達の考究を踏まえつつ、これまでほとんど注

目されてこなかった《元三大師縁起絵巻》と《慈眼大師縁起絵巻》

が「両大師縁起絵巻」として一ワンセット組で制作された理由を、宗教史学の

観点に美術史学の図像解釈の方法を重ねることで読み解いてみ

たい。

現在、東叡山寛永寺には、両絵巻がそれぞれ別の箱に保管されて

いる﹇図2﹈。また互いの箱書きには、双方の大師の名称が個別に

記されている。したがって寛永寺本の両大師の縁起絵巻は、同じ絵

師が描いた作品とはいえ、互いの絵巻が宗教的な政治性・信仰性を

基盤として連環する史的側面をとらえがたい傾向にある。

一方、その眼差しを青森県弘前市の報恩寺に向けるならば、同寺

には寛永寺本の《元三大師縁起絵巻》と《慈眼大師縁起絵巻》の模

写本が完本の状態で遺されている。報恩寺の両絵巻は、津軽藩の御

用絵師である新井常じょうしょう

償・新井償じ

ょうかん

寛・今い

村むら

常じょうけい

慶・片山常じ

ょうじゅ

寿・秦は

如じょ

春しゅんが

分担して寛永寺本を模写し、享保十年(一七二五)に報恩寺へ

納められた6。この五名は、当時、津軽藩の画業にて主力なす狩野

派系の御用絵師であり、藩主が彼らに寛永寺の「両大師縁起絵巻」

を模写させ、同縁起絵巻を弘前へともたらしたと言い伝えられてい

る。ただし本稿で注目すべきは、その模写本が納められた「黒桐の

重箱」である﹇図3﹈。同箱は三層構造をしており、上段に《元三

図 1:住吉具慶画《元三大師縁起絵巻》(東叡山寛永寺蔵)

図 2:住吉具慶画《慈眼大師縁起絵巻》の箱[昭和2年 6月修繕](東叡山寛永寺蔵)

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大師縁起絵巻》の一巻・二巻・三巻が納められ、中段に同絵巻の四

巻・五巻・六巻を納め、下段に《慈眼大師縁起絵巻》の一巻・二巻・

三巻(全三巻)が納まる仕組みになっている。しかも、かぶせ蓋に

は「両大師御縁起

九巻」と金字で記されており、この箱から元三

大師・慈眼大師の両絵巻はそれぞれ個別に描かれたわけではなく、

「両大師の縁起絵巻」として全九巻を一組として制作されたことが

わかる。さらに報恩寺本の収納箱は寛永寺本の収納箱(当時の)を

模して造られたと類推するならば、住吉具慶による寛永寺本の《元

三大師縁起絵巻》と《慈眼大師縁起絵巻》も、元来は「両大師縁起

絵巻」と題し、全九巻を一組として三重箱に納め、東叡山に奉納さ

れた可能性を指摘できよう。

そして同観点をふまえると、「なぜ、生きた時代の異なる二人の

天台高僧が、一セットの縁起絵巻として重ねて描かれたのか」とい

う本論の主眼となる問いを、「両大師の縁起絵巻」の収納形態から

導き出すことができる。しかもこの問いは、「なぜ江戸時代におい

て元三大師と天海僧正が重ねて信仰されたのか」という両大師信仰

の成り立ちを読み解く鍵となる。

そこで本論は、これらの疑点を「両大師」に関わる縁起絵巻や天

台寺院の諸資料をもとに解き明かすことを目的とし、以下、二点の

視座からのアプローチを試みる。

まず一点目は、江戸期にて元三大師に関する〈縁起絵巻〉や〈お

札〉が制作された理由として天海僧正の意向が深く関わっていた点

に着目する。天海が「中世天台の講式の継承」や「天台分派の統一」

を必要とした宗門の政治性を基盤とし、戦国期の戦乱で弱体化した

天台教団を立て直すために、それらの絵巻を制作させた歴史経緯を

明らかにする。しかも、そうした儀礼継承や宗門統一の意向は、天

海亡き後、胤いん

海かい

をはじめとした門弟たちに受け継がれ、彼らによっ

て元三大師と天海を重ねる信仰が育まれる。

そして二点目は、《元三大師縁起絵巻》と《慈眼大師縁起絵巻》

の基層に天海独自の宗教観である「山王一実神道」の考え方が横た

わっていた観点に着目する。天海による「山王一実神道」は東照権

現(徳川家康)への求心力を高める宗教観として捉えられることが

多いが、本考ではとくに《元三大師縁起絵巻》に描かれた大師が諸 図 3:報恩寺本《両大師縁起絵巻》の黒桐箱

(青森県弘前市・報恩寺蔵)

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国の異形者たちと邂逅する場面に注目し、元三大師が彼らを宗門へ

と誘い込む、絵巻が有する宗門拡大の政治性を浮き彫りにする。

こと、著名な絵師による縁起絵巻の研究は、絵図の典拠や絵師の

画系譜を解き明かすことに終始し、その図像が有する物語性や政治

性にふれる機会も少ない。ましてや絵巻が生み出された宗教的理由

にまでフォーカシングする視座に乏しく、中世期の宗教儀礼や信仰

習俗とそれらの絵巻制作が接続する観点も希薄である。そこで本論

は、《元三大師縁起絵巻》が成立した宗教史的背景と同絵巻に描か

れた図像表現を重ねて読み解くことで、儀礼継承や宗門統一をめざ

した天海の意向を捉え、しいては近世天台の高僧絵伝が有する宗教

的な政治性を明らかにする。

  

二、両大師信仰とその起源

まず、絵巻への具体的な考察に入る前に、江戸期の「両大師信仰」

の実態についてふれておきたい。元三大師こと慈恵大師(良源)は

永観三年(九八五)正月三日に入寂したことにより、後世に「元三」

と称され、一月三日を命日として同師を祀る祭祀が中世以降、比叡

山の諸寺院を拠点に連綿と行われてきた。元三大師は、生前から知

力や霊力に優れた貴僧として名高く、村上天皇の世継ぎを安産祈願

で成就させ、宮中への病魔や災難を除く祈祷を繰り返しおこなった。

また同師は政治面でもすぐれた能力を発揮し、天台座主として、当

時、相次ぐ天災や人災などで荒れ果てた比叡山の根本中堂を改築し、

天台宗派の組織改革に乗り出すことで宗門の地固めをした人物であ

る。最澄亡きあと散佚傾向にあった天台門派を、平安期の宮廷の力

を借りることで再びまとめ上げ、まさに天台宗の中興の祖として、

後世にて日本の誰もが彼の末裔にあたるとされた7。

もっとも、現在では「角大師」と称すお札に描かれた人物として

親しい﹇図4﹈。お札に関しては、本論三章にて民間への流布につ

いてふれるが、ほかにも観音が三十三身の元三大師に変身した故事

を一枚のお札に描いた「豆大師」などがある。いずれも元三大師の

「魔」を払う霊力を、後世へと伝える象徴的な事物である。

また興味深いことに、江戸期においては、元三大師信仰に天海僧図 4:「角大師」のお札

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正への崇拝が重ねられることで「両大師信仰」の祭祀が執り行われ

た。同信仰が庶民信仰として大衆化するのは天海入滅後の十八世紀

以降であり、参詣地は「東叡山寛永寺」である。その様子は斎藤月

岑『東都歳事記』(天保九年〈一八三八〉)の挿絵(「東叡山両大師詣」)

から知ることができ﹇図5﹈、江戸庶民の祈りの場として殷賑をき

わめた。そこには、江戸庶民が毎月三日と十八日に、両大師詣でと

して東叡山寛永寺を群居して訪れる光景が描かれている。堂内の中

ほどには賽銭が散らばり、右奥では護摩祈祷が執り行われている。

また元三大師の御み

籤くじ

箱ばこ

のような物を手にする人物もみられ﹇図5‒

A﹈、左奥では僧侶と武士が火鉢を囲んで語らい、祭壇手前の左側

には経巻あるいは縁起絵巻が納められた「黒色の重箱」﹇図5‒

B﹈

が描かれている。同図像を、先述した弘前市報恩寺の両大師御縁起

「黒桐の重箱」と照らし合わすと﹇図3﹈、画中の黒箱に両大師の縁

起絵巻が納められていたとしてもおかしくはなかろう。

ほか、江戸後期の挿絵ではあるが、斎藤月岑『江戸名所図会』(天

保期〈一八三四‐三六〉)にも、長谷川雪旦の筆にて「両りょう

大たい

師し

遷せん

座ざ

の様子が描かれる﹇図6﹈。民衆が両大師の遷座のために東叡山の

松林に集まり、画面中央の手た

輿ごし

につき従い行列をつくる。手輿の唐か

破は

風ふ

の屋根には8元三大師を示す「輪宝紋」と天海僧正の家紋「丸

に二つ引き紋」が並んで描かれていることから9、輿の内には両大

師の尊像が並んで納められていると考えられる﹇図6‒

A﹈。また

画中右下には、次のような詞書が記される。

月つき

毎ごと

の晦み

日か

には両

りやう

大たい

師し

の御影え

を次つ

の院い

ん 

遷せん

座ざ

なし奉

たてまつる 

是これ

将をくりむかへたてまつ

迎奉らんとて 

江え

府ど

遠えん

近こん

の諸し

人にん

群ぐん

参さん

して道た

路ろ

に溢あ

る 

実じつ

此地熱に

鬧やか

の中 

最もつ

とも首し

なる

ここから、毎月末日に両大師の尊像を手輿に納め、次の子院へと

図 5:斎藤月岑『東都歳事記』(天保 9年〈1838〉)(早稲田大学図書館蔵:wo06_03375_0001_p0026)

[図5-A](元三大師御籤箱のような物)

[図5-B](縁起絵巻が納められた重箱だろうか)

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運び、それにしたがって江戸の市井民が群列をなしてねり歩いたこ

とがわかる。まさに物見遊山をともなった祭祀にふさわしい光景で

あるが、挿絵の群衆から判断する限り、両大師信仰が月次の行事と

して江戸庶民に熱狂的に受け入れらたことを知れよう。

もっとも、重要な点は、両大師の尊像が毎月ごとに寛永寺の子院

を巡りゆく「遷座」の意図である。幕末期ではあるが、そうした慣

習を暦こよみとした摺物「両りょう

大たい

師し

縁えん

日にち

暦こよみ」(文久三年〈一八六三〉)が江戸

の板元から刊行されている﹇図7﹈。そこには両大師の紋と共に、

正月から十二月まで、両大師の法事が巡りおこなわれる寛永寺の子

院名が記されている。また興味深いことに、各子院を運営管理する

のは諸大名家であり、その家名も明記されている。「寒松院」では

正月に藤堂和泉守(上屋敷)が両大師縁日を切り盛りするなど、加

賀前田家、阿波松平家をはじめ、東叡山周辺の諸地域(下谷仲町)

に藩邸をかまえた諸大名がみられる。おそらくそれらの子院では、

両大師縁日(遷座)になると、自藩の面子を保つために、諸大名が

武家衆や町衆をしたがえて盛大に両大師信仰を執り行ったにちがい

ない。

また別の観点から捉えるならば、東叡山寛永寺が両大師信仰を月

次の歳時として慣習化させることで、大名・武家・町人を同山門に

おのずと組み込んでゆく巧妙な政治性も見え隠れしている。ちなみ

に、天海が入寂して約五十年後の「元禄十二年(一六九九)」の東

図 6:斎藤月岑『江戸名所図会』(天保期〈1834‒36〉)[両大師遷座 ](早稲田大学図書館蔵:bunko10_06556_0014_p0038)

[図6‒A]

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叡山古地図(『慈眼大師御物語』)をひもとくならば、本坊を中心に

「寒松院」や「一乗院」などの各子院が並んで建てられ﹇図8﹈、本

坊東側には慈眼大師を祀る「開山堂」もすでに建立されている。江

戸中期には東叡山寛永寺の境内に三十六の子院が立ち並び、それら

は本坊と命運を共にしていた。

では、いつ頃から、元三大師と天海僧正を重ねて祀る祭祀信仰

が執り行われるようになったのか。この点に関しては、幕末期の

資料ではあるが、前出の斎藤月岑による『武江年表』(嘉永三年

〈一八五〇〉)の「寛永十八年(一六四一)」の記述が参考となる。

   

東叡山両大師院々、巡行執事肇はじまる。10

同記は、執筆時期と記述内容に時間的な隔たりはあるものの、斎

藤月岑の記録が正しいとするならば、両大師信仰の遷座祭祀は寛永

十八年(一六四一)よりはじまった。これは天海が亡くなる二年前

のことであり、いわば天海が在命中に自身と元三大師を重ねて祀る

信仰が生み出されたことになる。ここに両大師信仰の発端は天海自

身の意向によるものと考えずにはいられない。また、そのことを想

起させる文面が《元三大師縁起絵巻》に記されている。寛永十七年

(一六四〇)に、天海が徳川将軍家光の世継誕生を祈願するため、

伊勢国の西来寺から取り寄せた民部法眼が描いた《元三大師の尊像

図 7:「両大師縁日暦」(文久 3年〈1863〉)(国立国会図書館蔵)

図 8:「東叡山古地図」(元禄 12年〈1699〉地図の模写)(『慈眼大師御物語』(江戸中期刊)より)

(国立国会図書館蔵)

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 22 ―

図》に関する叙述である。天海は、祈祷後もその本尊御影図を寛永

寺に安置し、次のように弟子に命じた。

天てん

海かい

。門も

弟で

子し

に遺ゆ

言げん

し給ふは。本ほ

山ざん

の例れ

にまかせて。勢せ

州しゅうよ

り来き

らせ給ふ眞し

影ゑい

。當と

山ざん

房ぼう

房ぼう

。三十日が程ほ

。巡

じゅん

番ばん

に執し

事じ

し奉

るべし。大だ

権ごん

の聖

しょう

像ざう

とならばんはそのをそれなきにしもあら

ねど。我ぐ

頑はん

像ざう

も跡あ

にしたがひて。ともに大た

樹じゅ

の御お

武ぶ

運うん

を守ま

り。

國こく

土ど

豊ぶ

饒ねう

をめぐまんとぞ。それより衆しゅ

人にん

あゆみをはこび。人

に利り

益やく

をほどこし給へり。11 

同文は、天海の弟子の胤海が絵巻の詞書(「東叡山寛永寺元三大

師縁起」)として延宝八年(一六八〇)頃に作成したものである。

ここで、天海が比叡山の儀礼慣習にしたがい、《元三大師の尊像図》

を東叡山寛永寺の子院を三十日ごとに輪番でめぐる祭祀を執りおこ

なうように遺言したという。しかも、大権現の肖像(家康像)なら

ば恐れ多いが、天海自身の尊像ならば《元三大師の尊像図》に従わ

せて子院を巡らせよと告げたとする。この天海の意向に〈元三大師〉

と〈天海僧正〉を重ねて祈願する両大師信仰の起源をとらえること

ができる。もっとも、天海の意図はあくまでも大樹(徳川秀忠)の

武運をまもり、太平の世が続き人びとが豊かに暮らせることを祈願

するためであると記す。

では、その視座を中世期の比叡山に移すならば、どうであろうか。

室町期の比叡山僧房では、すでに、僧侶のみならず公家や武家が「元

三大師の尊像」を何度も参詣する「慈恵大師講式」が執り行われて

いた。この点については、『実さね

隆たか

公こう

記き

』(文明十三年〈一四八一〉五

月) 

による次の記述が参考となる。

十八日、﹇壬辰﹈、晴、處々参詣如毎日、﹇中略﹈兩度詣元三大師、

十九日、﹇癸巳﹈、陰、参詣處々如毎日、﹇中略﹈

慈恵大師講式書之、

廿日、﹇甲午﹈、晴、晝間参詣元三御影・大師御廟等、七日参籠、

         

至今日結願、所願成就、自愛々1々2 

同文によれば、室町後期の公家・三条西実隆は五月十八日から

二十日かけて比叡山僧房にて元三大師詣でを何度もおこない、二十

日の昼間には元三大師の尊像(御影)と御廟にも参詣したという。

この間、三条西実隆は山上にて七日間も籠り、「慈恵大師講式」の

祭祀儀礼にて念願し、その願いが成就したと記す。また別の観点か

ら捉えるならば、中世期において「元三大師の尊像図」(御影)な

どが宮中の御用絵師等の筆で数多く描かれたのは、このような比叡

山における宗門儀礼の習わしが存在したからと考えられる。この点

はとくに重要であり、同時代の宗祖や高僧の肖像画はたんなる鑑賞

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のためではなく、その絵図が儀礼空間に配置されてはじめて宗教的

機能としての意味を有した。

他方、「元三大師の摺札」に関しても同様の観点から捉えること

ができる。こうした「元三大師の摺札」﹇図4﹈の起源は、少なく

とも鎌倉中期まで遡ることができる。それを証する記述が『吾妻鏡』

(正安二年〈一三〇〇〉頃)の「寛元五年三月」に記されている。

二日、乙卯、今日、可摺不動并慈恵大師像之由、被仰政所之

間、有其沙汰云々、廿八日、辛巳、為将軍家御祈、不動尊并

慈恵大師像一萬體被摺寫之、今日、有供養之儀、導師松(

良基)殿

眼也、 13

同記によれば、寛元五年(一二四七)に将軍家の祈祷のために、

不動尊と元三大師の尊像を一万体摺る儀式が、藤原基房の孫である

良基(松殿僧正)によって執り行われたと記す。

さらに、飛鳥井雅親による和歌集『亞槐集』(室町後期)の「雑

部下釋教部」によれば、室町後期になると、「元三大師の摺札」は

現在と同じような厄病除けの機能をともなって、毎月、二度ほど摺

られていた記録ものこる。

慈恵大師の尊像を毎月兩度すり奉る事、上は玉體よりはしめ、

そのほか私さまの妻子従類のため、又兩道の門弟、祈事多年

になり侍ぬ、今老病心ほそく侍るに、けふも又摺奉るとて思

ひつゝけ侍る14

ここでの「元三大師の摺物」がどのような絵相であったのか、

右の文面では定かではないが、天皇から庶民の妻子にいたるまで、

すべての人々に配布するためにつくられたことがわかる。また摺主

は、老いて病のために心細くなり、その日も元三大師の摺物を摺ろ

うかと思っていると記す。現在の天台寺院で見かける「角大師のお

札」﹇図4﹈や「豆大師のお札」も、おそらくこうした室町期以前

における元三大師の摺物をつくる国家儀礼や信仰的慣習に基づいて

生み出されたと考えられよう15。

さらに興味深いことに、こうした中世期の比叡山における「慈恵

大師講式」や「元三大師の絵像を信仰の対象とする習慣」の流れを

受けて、同山の僧房では元三大師の絵像を坊中にて月毎に巡回させ

る講式が慣例化していたことである。これについては江戸前期の資

料ではあるが、承応元年(一六五二)に成立した『比叡山堂舎僧坊

記』の「北谷・

八部尾」の記述が参考となる。

一 降魔大師

慈恵大師也。御自筆ノ 

 

絵像畫影之後降魔之眉

毛自ヲ生ス。依レ之奉レ名爾。當尾坊中限二一箇月一ヲ輪番二奉レ守。

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 20―

旦夕之勤行。日供。夜燈。毎月三日式日之御講。至二于今一無二

退轉一。天下安全之旨奉レ祈者也。往古者尊像之箱賜二勅符一。

毎年正月十八日勅會之八講有レ之16

まず、元三大師が自身の筆でみずから描いた肖像画に眉毛がおの

ずと生えた伝承が記され(『降魔大師縁起』)17、その絵像を当山の

坊中にて一ヶ月ごとに輪番にて守り奉り、毎月三日に「慈恵大師講

式」をおこない天下の安全を祈るという。またその尊像の箱が往古

に勅符より賜れたことから、このような元三大師の絵像を各僧房に

て巡回させる慣例が、少なくとも江戸初期あるいは中世後期には行

われていた可能性を指摘できる。

ここで本章の要点をまとめると、天海が門弟に遺言した「元三大

師の尊像を東叡山寛永寺の子院にて毎月ごとに巡回させる儀礼習

慣」は、中世以前の比叡山僧房における「慈恵大師講式」のスタイ

ルを踏襲したことによる。しかもそこへ、自身の尊像を追従させ、

両大師信仰をつくりあげたのである。つまり天海による両大師信仰

は、中世期の比叡山における天台宗派の儀礼文化と陸続きであり、

その起源を遡れば本山僧房の「慈恵大師講式」に行き当たる18。ま

たこうした儀礼講式が中世期に存在していたからこそ、その本尊と

して用いるために高僧絵図や彫像が数多くつくられた。このような

文化基盤は江戸期においても連綿と継承されており、《元三大師縁

起絵巻》と《慈眼大師縁起絵巻》が一組で制作された理由は、「元

三大師の尊像」に「天海僧正の尊像」をしたがわせて東叡山寛永寺

の子院を連番させる中世期以来の儀礼慣習に基づいているからで

ある19。

  

三、《元三大師縁起絵巻》にみる

    

異形性と諸国性

次に、《元三大師縁起絵巻》の内容についてふれたい。ただし同

縁起絵巻は全六巻と長く、元三大師の誕生から入寂までを物語化し

たもので、本論ではすべてを取りあげることはできない。そこで、

同絵巻の特色である「異形性」と「諸国性」の観点にしぼって、そ

の内容をみていきたい。なお本考における「異形性」とは「絵巻に

て元三大師が妖魔や遊行宗教者など、既存の社会や宗派に属さない

人びとに次々と出会う挿話」を示す言葉として用いる。他方、「諸

国性」とは「絵巻にて元三大師が様々な地域にて奇瑞をおこす挿話」

をあらわす言葉として用いることにする。

ちなみに、現在確認されている《元三大師縁起絵巻》は次の四点

である。①寛永寺本《元三大師縁起絵巻﹇一・二・五﹈》・《慈眼大師

縁起絵巻》(延宝七年〈一六七九〉)②弘前・報恩寺本《両大師縁起

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 19―

絵巻》③求法寺本《元三大師縁起絵巻﹇断簡﹈》(南北朝時代推定)

④東博本(下絵)《元三大師縁起絵巻》。また江戸中期には両大師に

関する版本形式の縁起書もつくられ、『両大師伝記』(寛政元年

〈一七八九〉)や『両大師利生記』(江戸後期)などが相次いで刊行

された。

先述のくり返しになるが、寛永寺本の《元三大師縁起絵巻》と《慈

眼大師縁起絵巻》の詞書は、天海の門弟で東叡山権僧正をつとめた

胤海が六十七歳の時に記したものである。のちに刊行される『両大

師伝記』や『両大師利生記』も、すべて胤海による両大師縁起絵巻

(寛永寺本《元三大師縁起絵巻》・《慈眼大師縁起絵巻》)の詞書をそ

のまま転写している。両絵巻の成立を考える場合、胤海の存在は看

過できないが、同僧に関する資料が少なく20、本論では江戸後期の『東

叡山子院現住法脈記』の記述をあげておく。

  

第一世贈大僧正胤海

花山院左大臣定好公養為レ子。寛永元年甲子年甫十四。禮二梶

井最胤親王一ヲ於二台麓滋賀院薙髪。新王畀二號寶成院一。三年丙

寅来二當山一謁二開山大師一遂為二弟子。(中略)慶安二年己巳値

開山大師七周忌一建二別請立義會一。自為二第一問者一。寛文改

元辛丑任二権僧正一。(中略)八年庚申著二慈恵慈眼二祖傳一行二

于世一。延寶元年癸丑為二天台會場一。21

ここから胤海は花山院定好が養う子息にて、寛永三年(一六二六)

に東叡山に入門し天海僧正の弟子となったことがわかる。また彼は、

天海僧正の七周忌の際に、学僧の問答試験をおこなう「立義の会」

を立ち上げ、その第一問者(探題を出題する人)に就いた。寛文元

年(一六六一)に東叡山寛永寺の権僧正となり、延宝元年(一六七四)

に寛永寺をはじめ天台寺院を世俗民の信仰のために開場した。また

同八年には、世の人びとのために元三大師・天海の二祖の伝記を著

したという。そう考えると、胤海が両大師縁起を作成した目的は、

堂内の学侶へ高僧伝を伝授するのみならず、両大師の物語を世間一

般の人々にひろく伝布することにあっただろう。そのことが、寛永

寺本《慈眼大師縁起絵巻》の「胤海の奥書」に、胤海自身の言葉で

記されている。

余嘗自幼侍師之座下、而無日不相追随、恰如形影之相從、然故

其舊勲積徳取親所識之者、而作其傳、癸亥巳前之事跡者、亡父

宗伯所悉識之者也、仍詳誌之垂不朽、世言先師之異行者、往々

有異于與實者、只以此記可為證而已

     

延寶七年﹇巳末﹈季冬中旬22

胤海は幼き頃から天海僧正に近侍し仕えない日はなく、師の影か

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 18 ―

形かたちの

ように付いていたという。そこで天海から教義のみならず様々

な物語や伝承を教え聞かされたにちがいない。亡父の「施薬院宗伯」

から伝えられた天海僧正のエピソードも交えて、その伝記を詳しく

記したとする。また胤海は、最後の一文にて、世の中には天海の教

えとは異なる言動をおこなう者もあり、往々にして有ること無いこ

とが言われるので、ここに真実の伝記を著し、この記述のみを証拠

と成すべしと記す。

このことから、胤海が同縁起絵巻を制作した理由とは、天海への

俗世の悪評や流言、あるいは師の教えと異なる考え方をもつ者たち

を正すために、正統的な伝記(高僧傳)を必要としたからであろ

う23。この点は近世期の縁起絵巻を考察するうえで看過できない点

であり、「両大師縁起絵巻」が制作された背景に、天海の考え方と

は異なる者たちを同師の教えの範疇へと汲み上げる政治性を捉える

ことができる。また言い換えるならば、こうした絵巻や伝記が示す

物語性には、諸宗派や世俗民が信ずる教義や信仰を一元化(天台化)

することをめざす機能を有していた。これは現代の言葉でいうと「メ

ディアが有する政治的な機能性」に等しく、すでに近世前期の絵巻

にもそのような要素が含まれていたといえよう。

そうした観点から《元三大師縁起絵巻》の挿話を読み解くならば、

同縁起には、修験者、天狗、疫鬼などの異形者が元三大師に教化・

済度されるエピソードが散見する。   

たとえば、本絵巻の第三巻には「法螺貝吹きの異形者」の挿話が

記される。

井のほとりに螺かい

をふき。ときんをいただきたる者も

出たり。いか

図 9:報恩寺本《元三大師縁起絵巻[両大師縁起絵巻]》(弘前市報恩寺蔵)

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 17 ―

なるものにか侍るととはせ給へば。我われ

は役えん

の小せう

角かく

の徒と

に臥ふし

行ぎゃう

者じゃ

といふ者も

ものなり。(中略)さては不ふ

測しき

の者も

也と覚お

して内に

引ひき

入給ふ。夕せき

陽やう

西せい

山ざん

におちぬれど。立かへるべきさまにもあら

で。其そ

夜よ

は御前ま

に侍りて御物も

語がたりす

。つとめての朝あ

云いふ

やう。ねが

はくは師の本ほ

身しん

をみたてまつらんといふ。師のいはく。わが本ほ

身しん

を見んと思はば。那な

智ち

山さん

にゆくべしとありしかば。24

同話の絵図では、屋内の元三大師が「法螺貝を持つ異形者」すな

わち修験者(役の行者の徒)と対面する場面が描かれる﹇図9﹈。

大師がその者に夜、物語りをして、我が本身を見たければ「那智山」

へ行くべしと諭す。平安期以降の那智山は天台宗と修験道が一体化

した霊場空間を形成しており25、ここから同エピソードには同時代

の修験者たちを那智山へといざなう意図を読み取ることができる。

いうならば、同部分は元三大師が諸国を遊行する修験者たちを天台

宗派へと誘った教化性を象徴する出来事として捉えることも可能で

ある。

また同縁起絵巻の「異形性」を示す挿話としては、巻五の「唐の

天狗を童子たちが退治」を挙げることができる﹇図10﹈。

次に座ざ

主す

御み

輿こし

にて登の

り給ふに。爰こ

の天て

狗ぐ

。谷た

かげよりみれば。

今取と

かかりなんと思へるけしきなるに。びんづら結ゆ

ひたるわら

は二十人あまりすはへを捧さ

さげて。道みち

の左さ

右ゆう

にくだり渡り。かかる

所にぞあやしき者はあなれ。ところどころにちりつつあされ行

といひて。26

図 10:住吉具慶画《元三大師縁起絵巻》(東叡山寛永寺蔵)

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 16 ―

天台座主の元三大師が御輿にて山を登る際に、二十人の童子たち

が木枝を持ってあやしい者を探し回っていた。その後、童子たちは

老法師を捕らえて、石卒塔婆の傍らで打ち伏せた。すると老法師は、

唐より渡ってきた天狗にて、日本のさまざま場所を拝み奉るために

ここへ立ち寄ったという。そこで元三大師は、童子たちの仕打ちに

より腰を折った天狗を、

それにかく腰こし

おらせ給ひぬる事のいとおしさよとて。房ぼう

にかき

入て湯とう

治ぢ

なんとさせ。唐

もろこしに

かゑしけるとぞ。

として、僧房にて湯治をほどこし、唐へ帰したという。この挿話は、

天狗済度の「異形性」を描くために、中世期の『今昔物語集』や《是

害坊絵巻》等の説話を《元三大師縁起絵巻》(あるいは伝記)へと

転用したものと考えられる27。

他方、元三大師の伝記といえば、「角大師のお札」に関わる「大

師の御影鏡」や「疫神への指の済度」するエピソードがよく知られ

ている。双方の挿話は、すでに室町期の僧・行誉が記した問答集『壒

囊鈔』(古写本:文安二―三年(一四四五―四六))等に記されてお

り28、左記の「表」が示すように29、胤海が《元三大師縁起絵巻》

を記すにあたって中世期の仏教問答集などを参考にしていたことが

わかる。

双方の叙述の比較から、胤海の《元三大師縁起絵巻》では、「夜

叉の形に現ずる」や「百鬼夜行の首」など、室町期の『壒囊鈔』で

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 15 ―

は記されていない脚色がなされていることがわかる。いわば同絵巻

は妖魔や奇談を強調する娯楽性に富んだ表現を加味している。ほか

にも、絵巻における「鏡に映る大師御影絵」﹇図11﹈を「角大師の

お札」﹇図4﹈の図像として描いている点など、当時の巷間に流布

した元三大師(夜叉)のイメージを絵巻表現に組み入れている。ま

た、「大師に指弾きされる疫神」の図像﹇図12﹈は、《百鬼夜行絵巻

﹇真珠庵本﹈》の妖魔画に倣って描かれている点も見逃すことはでき

ない﹇図13﹈30。こうした事例から、《元三大師縁起絵巻》は学僧や

堂衆のみならず世俗民への公開を前提に描かれた可能性を指摘でき

る。また同視座は、絵巻が有する視覚性に特化した機能と関連して

考えることができ、観る者が知る「お札」や「妖魔画」を画中にく

わえることで、いくぶん敷居のたかい高僧伝に親近的なリアリティ

を抱かせる意図を含んだ表現といえよう。

そう考えると、胤海は詞書の初稿を絵師の住吉具慶に渡し、その

文面に従って具慶が描いた下絵を拝見したうえで、その作画表現に

準じて詞書を随時改変していった可能性も考えられる。あるいは胤

海と具慶が会談することで絵巻がつくられたのかもしれない。

いずれにせよ、住吉具慶の筆による《元三大師縁起絵巻》には、「夜

叉(角大師)」や「百鬼夜行」など、中世期の仏教問答集には記さ

れていない視覚的娯楽性の強い要素が加味された。その点を鑑みる

ならば、同絵巻が学僧や堂衆のみならず、ひろく一般の人びとに公

図 11:住吉具慶画《元三大師縁起絵巻》(東叡山寛永寺蔵)

[図 11-A]

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 14 ―

示するエンターテイメント性を備えていたといえる。

なお、鏡に写された元三大師の尊像が邪気や災難を避ける伝承は、

すでに『元亨釈書』(元亨二年〈一三二二〉成立)に記されている。

また興味深いことに、江戸中期に、絃外智逢によりその注釈書

『元

亨釈書便蒙』(享保二年〈一七一七〉)が編まれており、同書巻四の

慈恵大師の項目にて、「大師の御影鏡」(『元亨釈書』)の典拠は「宋

代の類書」にまで遡ると指摘する。その部分を左記に記すと、

自把レ鏡ヲ寫照メ曰置二我カ像一ヲ之所必避二ン邪魅一ヲ﹇書言故事

ノ四ニ曰傳神寫照トハ謂下傳ニ寫人ノ之形‐神一ヲ以傳中於後上也﹈

従レ茲模印メ天下爭傳フ方二今人屋間架戸扉ノ之間二黏貼殆ト徧シ

﹇新唐書ノ詳節徳宗紀ニ曰二ス屋間架一ニ注ニ曰

毎レ屋両‐架ヲ

為レ問ト﹈31 

とある。同文にしたがい宋代の類書『書言故事』(九六〇―

一二七九年:和刻版)にあたるならば、確かに「傳神類﹇畫二テ人ノ

形‐像一二以傳二後‐世一﹈」の項に、「寫照」と題し「神を人ひ

形がた

に描

いて後世へと伝える故事」が記される。

寫照 

傳神寫照。﹇謂下傳寫テ人之形神一ニ以傳中於後上也﹈顧長

﹇音掌﹈康。毎レニ畫レ人。数‐年不點レ眼。人問レ之。誉曰。

図 12:住吉具慶画《元三大師縁起絵巻》(東叡山寛永寺蔵)

図 13:《百鬼夜行絵巻[真珠庵本]》[部分]

[図 12-A] 住吉具慶画《元三大師縁起絵巻》[部分]

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 13 ―

傳神寫照。正在二阿堵ノ中一。32

顧長康という畫人が毎回、人形を描き、数年にわたり眼の点描を

しなかった。ある人がその理由を問うたところ、神々を後世へと伝

えるために画中に照写しているからだという。

このように『元亨釈書便蒙』の注釈を信ずるならば、「元三大師

の御影鏡」(『元亨釈書』等)の故事は、大陸の顧長康に関する画人

伝承に由来することになる。ただし、双方の故事には違いもあり、

元三大師の照写は描画ではなく、「鏡」への照写である。こうした

差異から、「元三大師の御影絵」の伝承性は大陸の古き類書の画人

伝を参照しつつも、比叡山の四季講堂(横川)に遺る「モノ」(鏡)

に依拠する独自の伝承形態を示すものであるといえる。

他方、「角大師のお札」﹇図4﹈が民間へと流布した信仰性を示す

資料に関しては、これまで考究の俎上に挙げられることはなかった。

先に比叡山の「慈恵大師講式」の儀礼にて元三大師の摺物がつくら

れたと記したが、そうした僧坊以外の場所にて、「角大師のお札」

が摺られた起源に関しては、《元三大師縁起絵巻》(巻六)による次

の記述と絵図が参考となる﹇図14﹈。

越えち

前ぜん

國のくにに

疫やく

災さい

をこりて。國く

人たみ

をほく身まかりける。一人の小

しゃう

工く

有ける。ちかき此山に登の

り。元

ぐはん

三ざん

角かく

形ぎゃうの

御み

影ゑい

を求も

とめて

帰り。門に

[図 14-A]

[図 14- B]

図 14:報恩寺本《元三大師縁起絵巻[両大師縁起絵巻]》 (弘前市報恩寺蔵)

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 12 ―

をしけるに。前ぜ

後ご

左さ

右ゆう

の隣り

家か

まで。わづらひもてこしに。かの

家の人。一人もやむことなし。たくみの事なれば。かの影像ぞ

みづから板い

にえり摺し

寫しゃ

して。人人につかはしけるに。をしける

家いへ

。大かたはわづらはず。たまさかに病や

しも死し

をいたす者も

かりける。國くに

の守しゅ

護ご

。此事をききて。山にいひつかわし。影

像ざう

あまたすらせ。人じ

家か

にをさせければ。國こ

中ちう

の病

びゃう

禍くは

やみける

とぞ。33

 ここから「角大師のお札」の民間信仰は、越前国にて疫病が蔓延

した故事に由来することがわかる。同所の一人の工匠が比叡山へ登

り、元三大師の「角形の御影」を持ち帰り門に貼っておくと、隣家

の病人が次々と治った。そこでその工匠は、「角形の御影」を板に

写して摺り、人びとに配り、家々に貼るようにうながすと、たちま

ち国中の疫病が避けられたという。同文を描いた絵図を見ると、庶

民の母屋で角大師のお札が摺られ﹇図14‐A﹈、それを人々が門前

などに貼る様子が描かれている﹇図14‐B﹈。同文を信ずるならば「角

大師のお札」の民間への流布は越前国よりはじまったと考えられる。

34

もっとも、ここで重要なのは《元三大師縁起絵巻》の挿話が比叡

山や宮中のみを舞台としているのではなく、越前国など諸地方にも

その高僧伝承が及んだことを描出する点にある。同絵巻には他にも、

「河内国の荒田水引きの童子」(巻六)などの地方での元三大師の奇

瑞が巧みに取り入れられ、これらは本絵巻が有する「諸国性」を端

的に示す事例である。

また「諸国性」と「異形性」を合わせもつ挿話として、本絵巻最

終巻(六巻)の「戸隠権現の観音籤と元三大師の出現」を挙げるこ

とができる。このエピソードは、《元三大師縁起絵巻》の中に天海

僧正の伝承をくわえている部分であり、後編の《慈眼大師縁起絵巻》

へと観者をうながす両大師縁起絵巻の接続点である。同挿話は、ま

ず元三大師が天海僧正の夢中に現れ、次のように告げる。

大僧正天てん

海かい

へ夢む

中ちゅうに示しめ

させ給ふは。信州戸とがくしやま

隠山に侍る観くはんおんせん

音籤を

我わが

前まへ

におき。信しん

心じん

堅けん

固ご

にして掉たう

取しゅ

せば。衆しゅ

人じん

所しょぐ

願はん

に應おう

じ。吉きつ

凶けう

禍くは

福ふく

をしらしめんと示し給へば。すなわち戸とがくし隠にいひつかは

し。神しん

前ぜん

に有ける五ご

言ごん

四し

句く

の占せん

文もん

を竹ちく

簡かん

にうつし。筒とう

中ちう

にこめ。

経きやうを

よみ。密み

呪じゅ

をみて。掉た

動どう

して。口よりさし出たる籤せ

を占う

らなふ

に。行ゆく

末すえ

の事とも掌

たなごころを指さ

がごとし。戸と

がくしごんげん

隠権現と師とは。和わ

光はう

の利り

物もつ

。一い

體たい

分ふん

身じん

と。昔む

かしより云傳つ

へけるもむべなり。35

現在、どこの寺院でも見かける「お御み

籤くじ

」は、その起源を中国に

有し、偈頌(仏教教理を説く詩文)と観音信仰が習合して成された。

ところが、《元三大師縁起絵巻》の詞書によれば、御籤の起源は信

州戸隠の神前にある「五言四句の占文」にあり、それを夢中の元三

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 11 ―

大師が天海に命じて竹簡へ移させ、筒中に込め、現在の御籤箱をつ

くったとする。しかも「戸隠権現」と「元三大師」を一体分身とし

て同一化し、双方を同時に崇める信仰性をつたえている。

もっとも同話は、また別の表現意図を有している。当時の戸隠修

験者たちは、諸国を遊行するなかで辻先にて占文祭祀や占いをおこ

ない、その寄金にて糊口を凌いでいた。いわば先述した「法螺貝を

持つ異形者」と同じような身分の人びとである。この挿話はそうし

た戸隠修験者たちを元三大師信仰のもとへ組み込み、天海を介して

天台教門へと同化させていく宗門強化の政治性をもっとも端的に示

している。この点は《元三大師縁起絵巻》と《慈眼大師縁起絵巻》

が生み出された文化背景を理解するうえでの要点であり、同絵巻

に「異形性」や「諸国性」の要素が取り入れられた理由の根幹を

成す36。

  

四 

両大師の縁起絵巻に潜む山王一実神道

先ほど両大師信仰が生まれる背景に、天海が元三大師の御影にし

たがい自身の尊像をも遷座させる意向を取り挙げた。この実情から

浮かび上がるのは、「なぜ天海は、元三大師を自身の存在と重ねた

のであろうか」という疑点である。言い換えるなら、東叡山寛永寺

の信仰支柱が「なぜ、元三大師でなければならなかったのか」とい

う問題である。

そこで同観点を読み解くために、天海が生きた時代の関東天台に

おける史的状況について簡単に振り返っておきたい。

当時の天台宗は、織田信長による比叡山焼き討ちなどにより、東

西を問わず宗門組織が弱体化していた。そうした状況下で、江戸幕

府が開かれ、天海が関東の地から天台宗を立て直すことを試み、ま

ずは自身の足もとから地固めをはじめた37。天海は徳川家との信頼

関係を緊密に保ちながら、日光山を将軍家の聖地とし、三代家光の

世には東叡山寛永寺を建立した。以後、同寺院を関東天台の拠点と

し、関東平野に点在する天台系寺院をその末寺へと汲み上げていっ

たのである。

ところがここで一つの問題があった。中世期の関東における天台

宗比叡山派の諸寺院はおもに「恵心流」と「檀那流」に分かれ、宗

門組織として確固たる足場を築くまでには至らなかった。そのため

天海は、両流派を同時に東叡山寛永寺の末寺へと引き入れる組織再

編に乗り出したのである。

そしてこの期に及んで天海は両流派の開祖に目を向けたのであろ

う。「恵心流」の開祖は源信(恵心僧都)であり、「檀那流」の開祖

は覚運である。しかも両者はともに、元三大師の門弟である。この

点については『慈恵大僧正拾遺伝付慈恵大師絵詞』(文暦元年

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 10 ―

〈一二三四〉頃)による次の記述が参考となる。

殊ニ覚運・源信ノ両人ハ、檀那恵心トテ、覚徳ノ左右翔□イハ

レ給ヘリ、ヲホカタ天台四明ノ覚宗ヨリイツル人

ミナ大師ノ

餘流ヲウケサルコトナシ、大師御在世ノ時、恵心僧都大師ニ奉

問一、云、何位ニイタリ給フソト被申一ケレハ、初随喜品ト被

仰一、僧都又、五品ハイカニト被申一ケレハ、五品ハ天台大師

ノ位也

38 

ここから元三大師(慈恵大僧正)は覚運と源信の師であり、「檀

那流」と「恵心流」の教えの遡源が同大師にいたることがわかる。

またおなじ内容の記述が、胤海の《元三大師縁起絵巻》にも記され

ており、

猶なを

更さら

源げん

信しん

・覚か

運うん

ぞ。講か

席せき

ごとに證せ

義ぎ

にあづかり給ふ。しかれば。

今にいたるまで我わ

宗しう

の相さ

承じやう。

恵ゑ

心しん

・檀だ

那な

の兩

りやう

流りう

とわかれにける。

源げん

信しん

僧そう

都づ

ある時と

師に問給ふは。師の御位く

らい

今は第だ

五ご

品ほん

にもや至

り給ふらん。いぶかしととはせ給へば。師の給ふは。第だい

五ご

品ほん

高かう

祖そ

智ち

者しや

大師の御ご

階かい

位い

なり。39

と、前出の『慈恵大僧正拾遺伝付慈恵大師絵詞』の文章を参照し

て記されたと思われる。さらに一歩踏み込んでみるならば、胤海が

同部分を《元三大師縁起絵巻》に書き加えた事実にこそ、関東にお

ける「恵心流」と「檀那流」の諸寺院を寛永寺の末寺とするための

史的状況を垣間見ることができる。

また、民部法眼の《元三大師の尊像図》をはじめ「元三大師の肖

像画」には、大師の両脇に「二人の童子」が描かれていることが多

い﹇図15﹈。この童子の意味については、江戸期の資料であるが、

『慈恵大師二童子秘訣』の冒頭部に次の見識が示されている。

問云大師二童子ト有

誰人耶答云

或恵心旦那

明普梵昭

暹賀

聖救等是也 

流布ノ説有之無是悲

真実之義於

二今此事ニ

梨本御門跡ニ童子ノ御影御本有之云事40 

元三大師の両脇に立つ童子は誰なのかと問えば、「恵心」と「旦那」、

あるいは「明普」や「梵昭」、「暹賀」や「聖救」などと記す。その

ような視座から、各所にのこる《元三大師の尊像図》をみていくと、

童子の部分が「源信」と「覚運」の肖像画として描かれている大師

画を見つけ出すことができる。その絵は《絹本著色元三大師・檀那

僧都・恵心僧都像》と題し、江戸期に制作されたものだが、比叡山

横川の元三大師堂に遺されている﹇図16﹈。

こうした点をふまえるならば、天海がなぜ元三大師への信仰を東

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 9 ―

叡山寛永寺の中核に添えたのか、その理由がおのずと見えてこよう。

元三大師は「恵心流」や「檀那流」の開祖たちの師であり、かつ当

時の関東天台の基盤を成した両流派を一つにまとめ上げるのに、最

も適した象徴的人物であったからである。

そしてもう一つ、元三大師の信仰でなければならなかった理由が、

先述した《元三大師縁起絵巻》の「異形性」と「諸国性」から捉え

られる。同絵巻には、戸隠修験者、法螺貝を持つ異形者、唐の天狗

など仏法以外の信仰を有する諸国の遊行民たちが、元三大師と出会

うことで仏教へと帰依していく過程を描いている。とくに戸隠権現

と元三大師を一体分身として同一化する考え方などは、「神道」と「仏

教」を習合的にあつかう本地垂迹説を想起させ、しいては比叡山の

産土神である山王権現と天台仏法を重ねる「山王権現垂迹説」に基

づいていることは言うまでもない。

結論から言えば、《元三大師縁起絵巻》には天海独自の宗教観で

ある「山王一実神道」の考え方が物語化・絵画化されているのであ

る。天海は大僧正の地位に就いた後、門弟はもちろんのこと、将軍

や武士、あるいは儒者に至るまで「山王一実神道」の教えを説いた。

その教えとは、比叡山王権現は諸国の神々の本源であるという「山

王権現垂迹説」を踏まえながら徳川家康を東照大権現として神格化

し、しいては天台宗の法華一乗の考え方にもとづき国家守護を祈願

する。じっさいに天海が、その宗教観を「将軍秀忠」や「儒学の林

永喜」に説く場面が、胤海の《慈眼大師縁起絵巻》に記されている。

大樹仰けるは、我愚昧なれは神道の事いさしらす、されと故相

国は佛の道に心を入させ給へり、神と佛と一の道あらは、それ

こそ亡親の御心にかなはめ、とにかくしらぬ道なれは内へう

かヽひてんとて、源重正を御使とし林永喜といへる儒学の者を

さしそへ、僧正のほり給ひて奏聞せしに、習合の神道めつらし

からす、殊に山王一實の神道、台宗の奥義とする事、さも侍ら

んとの綸言にて、習合の舊記なと賜はさせ給ふ。42

同文から天海は「山王一実神道」を天台宗の奥義と考え、「神道」

と「仏法」を一つの道とする考え方は我が国において珍しくはない

と説いたことがわかる。

ちなみに中世期の比叡山においては、「慈恵大師講式」の儀礼に「日

吉山王権現講式」の要素が含まれており、双方の儀礼は非常に近似

した関係として成り立っていた。しかも現在、叡山横川の元三大師

堂では、元三大師の尊像の横に《山王垂迹神曼荼羅図》が掛けられ

ており、山王曼荼羅図には元三大師の肖像が描かれていることもあ

る43。また「慈恵大師講式」と「日吉山王権現講式」はともに国家

守護を祈願し、比叡山の繁栄を祈るものである。ここに中世期の「講

式」という儀礼空間を介して、元三大師=山王権現垂迹説=国家守

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 8 ―

護の要素が結ばれていく。天海はこの点を十分に把握していたにち

がいなく、近世初期の段階で、これら比叡山における中世的な儀礼

や発想を関東天台の地へと転用することで、独自の宗教観を作り上

げていったといえよう。

このように考えると、天海が元三大師信仰を東叡山寛永寺の支柱

にそえた理由もおのずとみえてくる。近世以前の元三大師に関する

儀礼や伝承は、天海の意向である「山王一実神道」と非常にマッチ

ングしやすく、「神道」と「仏法」を習合させる意図を含んだ物語

性に満ちていた。

では天海は、「山王一実神道」をどのような目的のために将軍家

や宗門学侶などに説いたのであろうか。この点に関しては、慶安三

年〈一六五〇〉刊の東源撰『武州東叡山開山慈眼大師傳』の記述が

参考となる。

山王一實之神道、久得二其功徳一、今更欲二請益一、所以者何、

没後必現二神力一、我當下擁二‐護子孫一鎮二‐撫邦家一使中正法

繁茂上也、師不レ耐二感加一、涕泗連如、對曰、幕下握二天下於掌

一、非二一旦之所一レ能、宿世ノ福力也。44

  同

文から、天海は「山王一実神道」に関して、久しくその功徳を

得て、今更に請益を欲する所以は何ぞやと問われれば、没後、必ず

図 16:《絹本著色元三大師・檀那僧都・恵心僧都像》(企画展『元三大師良源-比叡山中興の祖』大津市歴史博物館、2010 年より転載)

図 15:《慈恵大師像》(企画展『相応と良源‐湖北の天台文化』長浜市長浜城歴史博物館、2017 年より転載)

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 7 ―

神の力があらわれ、我が子孫を擁護し、我々の国や家族を鎮撫し、

正法を繁茂せることにあると説く。この言説のねらいは子孫繁栄・

国家守護・仏法普及の三点にあり、徳川家の永続的な繁栄と、同幕

府による国家体制の維持を願うことであった。それは言い換えるな

らば、仏法の力を借り徳川家による太平の世を継続させることで、

人々の生活に安泰をもたらすことにあった。その意味で、天海の「山

王一実神道」は徳川家を維持・守護する政治的な意図を多分に含ん

でいたが、目的は諸国万民が子宝に恵まれ、太平の世の永続性を希

求することにあったのである。

こうした観点を踏まえるならば、「東叡山寛永寺の信仰支柱が、

なぜ元三大師でなければならなかったのか」という問いの答えが、

おのずとみえてこよう。まず一点目は、当時、「恵心流」と「檀那流」

に分かれていた関東天台の諸寺院を一つにまとめるためである。そ

して二点目は、中世期の比叡山における「慈恵大師講式」に倣い、

元三大師への儀礼や伝記に「神道」と「仏教」を習合的にあつかう

「山王権現垂迹説」の要素が含まれていたからである。しかも後者は、

「諸国の産土神」や「在地の修験信仰」(諸国性や異形性)を「仏教」

と重ね合わせることを狙いとし、地方のさまざまな宗派の信者を天

台宗門へと汲み上げる宗教的な政治性を有していた。こうした天海

による「山王一実神道」の宗教観を物語的・絵画的に表現すること

ができるのが元三大師の縁起絵巻であり、しいては中世期の「慈恵

大師講式」にもとづく元三大師信仰であったのである。

  

五、おわりに

以上、《元三大師縁起絵巻》を起点に、江戸期において〈元三大師〉

と〈天海僧正〉が「両大師信仰」として重ねられた理由を、絵巻の

内容や、中世天台宗が有した「慈恵大師講式」の儀礼性を通じて捉

えてみた。また《元三大師縁起絵巻》には「異形性」と「諸国性」

の特色が描かれ、そうした特色が天海の意向である「山王一実神道」

(子孫繁栄・国家守護・仏法普及)の宗教観によって描かれた可能

性を指摘した。

ところで天海や胤海の入寂後に、天台宗門は「両大師縁起絵巻」

に秘められた「山王一実神道」の意向を、学侶や庶民にどのように

拡めていったのであろうか。この点に関しては、室町期から発展し

た関東天台の談義所がポイントとなる。談義所とは、学識豊かな貴

僧が最新の教義を踏まえた講義書を作成し、それを複数の学侶のま

えで談義する学問所である。聴講する学侶たちは、貴僧の言葉を一

つ一つ書きとめて、自身が庶民へ向けておこなう説法のための教材

とした45。こうして、先僧から学僧へと天台門派の教義が伝授され

ていったのである。また関東地域ではこうした談義所が各所に設け

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 6 ―

られ、江戸期に入ると、それらの学問所では他宗派の学僧や儒者ま

でもが出入りし、仏教教義のみならず和歌・漢詩、記紀神話、奇譚・

呪法までも学べる知の拠点であった。

そして興味深いことに、こうした関東天台の談義所の多くでは元

三大師信仰がなされていた。この点に関しては宮崎栄氏の論文「関

東に於ける元三大師信仰と諸寺院」に詳述されており46、同論文を

参考に元三大師信仰を有する関東天台の談義所を上げると、左記の

通りとなる。

喜多院(旧仙波談義所)、一乗院(旧金鑚談義所:

関東八檀林)、

真光寺(旧渋河談義所)、竜蔵寺(旧青柳談義所)、月山寺(旧

磯部談義所)、安楽寺(飯沼談義所)

ほか、関東天台の有力寺院である深大寺においても元三大師信仰

が盛んであり、江戸時代において天台談義所と元三大師信仰が密接

な関わりもっていたことは注目に値する。また宇高良哲氏の論考に

よると、黒子千妙寺所蔵の寛文十年(一七六〇)記の「慈恵大師尊

像寄進状」には「慈恵大師者台嶠擁護之尊主魔碍退治之大将也、因

茲檀林者必安置之、論場者偏敬信之矣、凡東関之檀林咸以慈恵之妙

像為本尊」と記されている47。同文にもとづけば、関東天台の談義

所(檀林)では、学侶との問答の場において「元三大師の尊像」を

掲げて、その肖像の前で皆が論議をする慣習があったようである。

そして忘れてならないのは、江戸初期にこれら関東天台の諸寺院

を統括したのは東叡山寛永寺であり、諸院の支配構造を体系的に再

編したのは天海僧正である。しかも天台談義所は僧人を養成する機

関であり、同所で講義された教えが学侶たちの転居によって全国へ

と拡がる機能性を有していた。したがって、当然それらの談義所で

は、天海の意向が門弟を介して若年の学侶たちに伝授されたことは

間違いない。宗門の再編とは、たんに寺院の支配関係を構築するだ

けでなく、中央教団が推進する教義や信仰を末端の寺院にまで行き

届かせる宗教的な政治性を目的とする。ただし、そのような宗門の

政治性は、時の権力者に媚びしたがい、その威光を盾に独善的に宗

派を統一するような安易な考え方とは異なる。そうした上から教義

を押し付ける考え方では、学侶はもちろんのこと、世俗民の信仰心

はけっして揺らぐことはないだろう。むしろ、それぞれの地域の人

びとが何に困り、どのような救いを必要としているのか、彼ら心情

に応える手法でなければ、こうした体制は維持できないにちがいな

い。その意味で、元三大師信仰には「厄病除け」や「お御籤」など

世俗民の嗜好が多分に含まれており、かつ、宗門分派を統一するた

めに中世以来の比叡山の天台儀軌(儀礼性)を有していた。そのた

め天海は、元三大師を東叡山寛永寺の信仰形態の中枢に添えたので

ある。しかも天海がおこなった元三大師信仰を起点とする宗門再編

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 5 ―

とは、諸国の世俗民が有する信仰ニーズに応えるボトムアップ方式

と、徳川家を後ろ盾として教団組織の体制を整え、かつ自らの意向

を門弟たちへと行きとどろかせるトップダウン方式の交点によりな

された手腕といえる48。

元三大師と天海僧正、生きた時代の異なる二人の貴僧が「両大師

信仰」として江戸庶民に崇められ、しいては《元三大師縁起絵巻》・

《慈眼大師縁起絵巻》が一セットで制作された背景には、長い戦乱

が終わり、太平の世を迎えた天台僧たちの苦慮と智恵が満ち溢れて

いたのである。

注 (1)津村淙庵『譚海』(早川純三郎『譚海

全』国書刊行会、

一九一七年、四四三―四四四頁)。

(2)森銑三『森銑三著作集﹇第七巻﹈』中央公論社、一九七一年、

三七三頁。

(3)

寛永寺本《元三大師縁起絵巻》はほんらい全六巻からなる絵巻であり、

現在、同寺には三巻・四巻・六巻が欠。

(4)榊原悟「住吉具慶研究ノート

延宝七年『元三大師縁起絵』制

作をめぐって」(『季刊

古美術』三彩新社、一九八五年、二九―

五六頁)。

(5)下原美保『住吉派研究』藝華書院、二〇一七年、九〇―一〇三

頁。

(6)青森県史編さん文化財部会編『青森県史﹇文化財編﹈美術工芸』

青森県、二〇一〇年、一四七頁。

(7)東京大学史料編纂所蔵の『慈恵大師講式』(建保元年〈一二一三〉

の記)では、「大師昼夜守護給、我願既満。大師朝暮擁衛給、私

衆望亦足。仰願、慈恵大和尚、為遺弟除卻、天魔人魔、速成就

興隆之大願。為弟子哀愍今世後世、必円満」と記す。

(8)

唐破風の建築様式は、当時、各地の天守閣や寺院門、風呂屋な

どで用いられた。

(9)その起源は定かではないが、元三大師(良源)は如意輪観音

の化身とされ、輪宝紋で表されるようになった。また天海僧正

が用いた「丸に二つ引き紋」は、同師が座主を務めた仙波喜多

院の紋である。また天海が「丸に二つ引き紋」と「輪宝紋」の

二つを用いたという説があるが、「両大師」の信仰性を鑑みるな

らば、後者は元三大師を示す紋とおもわれる。

(10)金子光晴校訂『増訂武江年表﹇Ⅰ﹈』平凡社、一九六八年、

三八頁‐三九頁。

(11)天台宗典編纂所編纂『續天台宗全書﹇史傳2﹈』春秋社、

一九八八年、二四九頁。

(12)東京大学史料編纂所『大日本史料﹇第一編之二十二﹈』同朋舎、

一九八三年、 

二二四頁。

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 4 ―

(13)注(12)前掲書、二一一頁。

(14)注(12)前掲書、二二〇頁。

(15)そのほか、『壒囊鈔』(古写本:文安二―三年〈一四四五―

四六〉の「慈恵大師ノ影ヲ押二民屋一二事」には次の記述もみられ

る。

 「横ヨ

川カワ

ノ法華堂衆敢テ此ノ病ヲ不レ病苦シ病ヲ受ルハ則御へ

庿ウ

ノ御罰バ

也。仍テ必ス死ス。曽テ助カル者ナシト云云。此等ノ故ニ印摸

ヲ成テ。争ソヒ粘ネ

スト云云。」(『塵添壒囊鈔・壒囊鈔』臨川書店、

一九六八年、三二二頁)。

(16)天台宗典刊行会編纂『天台宗全書﹇第二十四巻﹈』第一書房、

一九七四年、五―六頁。

(17)同縁起に関しては叡山文庫に巻子「降魔大師縁起」や冊子『降魔大

師縁起』(宝永四年〈一七〇七〉)などの資料が遺されている。畑中智子

「叡山文庫蔵『降魔大師縁起』翻刻と解題」(『女子大国文﹇一三八号﹈』

京都女子大学、二〇〇五年)。

(18)黒川道祐が編纂した『日次紀事』(延宝四年〈一六七六〉序)によれば、

江戸期の京でも庶民信仰のレベルで元三大師の祭祀が行われていたこ

とを記す。

(19)「元三大師の尊像」のあとに「天海僧正の尊像」をしたがわせる構造は、

《元三大師縁起絵巻》の下部に《慈眼大師縁起絵巻》を納める弘前市報

恩寺の重箱の構造を想起させる。

(20)胤海については、下記の論考にて詳記されている。林京子「「下野州

岩舩山縁起」(岩舩山高勝寺縁起真名本)試訳と解題」(『下野州岩舩山

縁起(真名本・全一巻―詩訳と解題―』高勝寺デジタル複本プロジェ

クト・岩船山蓮華院高勝寺、二〇一八年)。

(21)注(16)前掲書、三一九頁。

(22)寛永寺編纂『慈眼大師全集﹇上巻﹈』第一書房、一九一六年、三九四頁。

なお、《元三大師縁起絵巻》の胤海の奥書は同年六月。

(23)なお、同縁起絵巻が制作された背景を絵師住吉具慶の記述から探る

ならば、寛永寺本《慈眼大師縁起絵巻》の「住吉具慶の奥書」が参考

となる。

右両大師之縁者延宝己末之

歳余隅住二武江一之日応二東叡山衆

侶求一而謹新図焉

 

庚申春三月月日 

 

法橋住吉具慶

ここで具慶は、寛永本の《元三大師縁起絵巻》と《慈眼大師縁起絵巻》は、

東叡山寛永寺の衆侶の求めに応じて描いたと記している。そのため、両

縁起絵巻の制作依頼は胤海の個人的な願望に基づくものではなく、東

叡山の宗門組織(学侶と堂衆)による意向と推定できる。おそらく胤

海自身も、東叡山の宗門組織の合意を踏まえて両縁起絵巻の伝記を制

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 3 ―

作したにちがいない。

(24)注(11)前掲書、二三七頁。

(25)ただし、那智山に関わるのは天台宗においても園城寺を中心とした

寺門派である。

(26)注(11)前掲書、二四四頁。

(27)企画展『元三大師良源―比叡山中興の祖』大津市歴史博物館、

二〇一〇年、八八頁。

(28)ほか『塵添壒囊鈔』(天文一年〈一五三二〉序)にも、同等の元三大

師の挿話が記される。

(29)注(11)前掲書、二四五―六四頁。『塵添壒囊鈔・壒囊鈔』臨川書店、

一九六八年、三二二頁。

(30)粉本主義にもとづき、絵師住吉具慶が《百鬼夜行絵巻﹇真珠庵本﹈》

の妖魔画に倣って模写した可能性を指摘できる。

(31)絃外智逢

『元亨釈書便蒙』 (享保二年〈一七一七〉) 

駒沢大学図書館

蔵本。

(32)長澤規矩也『和刻本類書集成﹇第三﹈』汲古書院、一九七七年、七五頁。

(33)注(11)前掲書、二五一頁。

(34)同故事に関して、なぜ越前国であるのかという疑問が残る。おそら

く同地域の在地伝承と元三大師の伝承が結ばれる交点が存在すると思

われる。一点、如意輪観音と疱瘡除けをつなぐ「湯尾峠の孫嫡子のお札」

が考えられるが、それと元三大師信仰との重なりについては確かな拠

りどころを見つけ出せずにいる。

(35)注(11)前掲書、二四九頁―二五〇頁。

(36)ちなみに、胤海が同絵巻を記すにあたって参考にしたと思われる「元

三大師の伝記」は、①藤原斎信撰「慈慧大僧正傳」(古写本:長元四年

〈一〇三一〉記)と、②南禅寺景茝撰「慈慧大師傳」(古写本:応仁三年

〈一四六八〉記)を挙げることができよう。ただし、①の資料には《元

三大師縁起絵巻》の二巻に記された「南僧の仲筭との論争と金色の元

三大師」の挿話の一部しか記述されていない。また②の資料には、《元

三大師縁起絵巻》の二巻に記された「四季講堂の壁面に浮かぶ大師の

御影」の挿話、三巻の「法螺貝吹きの異人」の挿話、巻五の「大師の

御影絵」の挿話に限って記される。

(37)『天海僧正と東照権現﹇第四十九企画展図録﹈﹈』栃木県立博物館、

一九九四年、七〇頁。

(38)櫛田良洪「〈新資料紹介〉慈恵大僧正拾遺伝付慈恵大師絵詞」『佛教

史研究﹇8﹈』大正大學会、一九七四年、九〇頁。

(39)注(11)前掲書、二四七頁。

(40)叡山文庫所蔵本。

(41)菅原信海「家康公を祀った天海の神道―山王一実神道の本義―」(『天

海僧正と東照権現﹇第四十九企画展図録﹈』栃木県立博物館、一九九四年、

一二頁―一三頁)。

(42)注(22)前掲書、三八二頁。

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《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向― 2 ―

(43)寺島典人「良源像の造像について」(『元三大師良源―比叡山中興の祖』

大津市歴史博物館、二〇一〇年、一〇二頁)。

(44)注(22)前掲書、三八二頁、三五三頁。

(45)渡辺麻里子「経典の注釈―談義所における学問の継承と再生産」(『日

本文学﹇第五四号﹈』日本文学協会、二〇〇五年、四一頁。

(46)宮崎栄「関東に於ける元三大師信仰と諸寺院」(『金沢文庫研究﹇第

九十四号﹈』金沢文庫、一九六三年、六―九頁)。

(47)宇高良哲『南光坊天海の研究』青史出版社、二〇一二年、三四三―

三四五頁。

(48)江戸初期に天海がこのような手腕で関東天台の諸寺院をまとめ上げ

ていったのには、浄土宗(増上寺)の台頭が挙げられよう。当時、増

上寺の僧侶たちも徳川政権に近しい存在であり、関東各地で檀林所

を設けていた。そこでは浄土宗僧の育成も盛んに行われ、同宗の関

東での教線はしだいに広がりをみせていた。そうした他宗派の状況

を鑑みて、天海は早急に関東天台の信仰基盤を立て直す必要に迫ら

れたのであろう。

【附記】

本稿は、日本学術振興会科学研究費補助金「近世寺社縁起絵巻と諸

藩御用絵師に関する史的研究」(研究代表者・鈴木堅弘 

平成

二十八年度から平成三十年度まで)によって遂行されたものである。

資料の閲覧・調査を許可してくださった東叡山寛永寺および弘前市

報恩寺の関係者の方々に厚く御礼申し上げます。

 

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視覚障がい幼児のための療育玩具に関する一考察……………………… 谷 本 尚 子…

みちのくの幽霊画を歩く ― 青森県弘前市禅林街を訪ねて―……………堤   邦 彦…

中学校社会科における防災学習の可能性(3)― 歴史的分野の学習内容を中心に―………………………………………………………………………………… 住 友   剛…

対面型美術鑑賞教育の理論と実践……………………………………………北 波   博…

京都市における小学校の統廃合と地域社会 ― 西陣中央小学校物語―……………………………………………………………………………中島勝住・中西宏次…

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Emergence and Fluctuation of the Slang Term, Dòngmàn , in the Chinese Magazine of Anime and Manga, The Age of Dòngmàn (offi cial English title : Anime Comic Time)…………………………………………………………………………………………Meng Lü…

Introduction to the Subject Matter and Supporting Material of Tanizaki Jun'ichirou's Mrs A's Letters ̶Reproduction, Comparison and Notes……………NISHINO Atsushi…

A Study on the educational toys for blind children……………………TANIMOTO Naoko…

On the Trail of Michinoku's Ghost Paintings ̶ A Visit to Hirosaki and Zenringai…………………………………………………………………………TSUTSUMI Kunihiko…

On Possibilities disaster prevention education in junior high school Social Studies Curriculum (3): Learning Content in the Field History…………SUMITOMO Tsuyoshi…

Interactive Art Appreciation Education in Theory and Practice…………KITABA Hiroshi…

Relationship between consolidation of elementary schools and local communities in Kyoto City̶The story of Nishijin Chuo Elementary School……………………………………………NAKAJIMA Masazumi, NAKANISHI Hirotsugu…

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京 都 精 華 大 学 紀 要第52 号・2018 年

目    次

● 査読論文

《元三大師縁起絵巻》からみるポリティクスと両大師信仰            ―近世天台高僧絵伝の成立と天海の意向…………………………………………………………………………………鈴 木 堅 弘…

健康と広告 ―赤玉ポートワインの新聞広告における訴求方法とその変容―…………………………………………………………………………………熊 倉 一 紗…

子どものメタ認知発達支援を促す保育士の働きかけ―「音づくりの時間」事例調査から― …………………………………………………………………………………石 上 浩 美…

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● 論文

「東山三十六峯図巻」から読み解く江戸時代後期における京都近郊の里山景観…………………………………………………………………………………小 椋 純 一…

人文学部ラーニング・コモンズ CASA の実践………………………………………………………………惠阪友紀子・小松正史・田村有香…

京都精華大学入学後の留学生たちが1年次前期に直面する諸課題とは             ―日本語学修支援室 2018 年前期調査の結果をふまえて―……………………………………………………………………………小柴裕子・馬路麻希…

マンガの笑い声表記に見る役割語……………………………………………住 田 哲 郎…

ウィンダム・ルイス『Anglosaxony:A League that Works』翻訳………………………………………………………………………………… 前 田   茂…

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Journalof

Kyoto Seika UniversityNo.52 2018

CONTENTS

●Refereed Papers

The political of Kousō engi emaki and Ryōdaishi Shinkō                to know from Genzan Daishi Engi Emaki

‒Establishment of High Priest painting of Tendai sect in the Edo period and Tenkai’s Intentions‒……………………………………………………………………SUZUKI Kenkō…

Health and Advertising:The Changing Appeal of Newspaper Advertisements of Akadama Port Wine…………………………………………………………………………KUMAKURA Kazusa…

Research on Nursery Teacher’s Words and Working to  Support of Children’s Metacognitive Development…………………ISHIGAMI Hiromi…

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●Non-Refereed Papers

The Picture Scroll "The Real Scenery of Higashiyama 36 Mountains" as Evidence of Late Edo Period Satoyama Landscapes around Kyoto…………………OGURA Jun-ichi…

The Practice of the Faculty of Humanities Learning Commons CASA ……………………………………………………………ESAKA Yukiko (representative), 

KOMATSU Masafumi, TAMURA Yuka…

What diffi culties do international freshmen experience after entering Kyoto Seika University in the early part of their fi rst year? According to the results of the First Year Survey of 2018 by Seika’s Japanese Learning Support Room………………KOSHIBA Yuko, MAJI Maki…

Laughter transcriptions as role languages in Manga ……………………SUMIDA Tetsuro…

A Japanese translation of Wyndham Lewis’s Anglosaxony:A League that works………………………………………………………………………………MAEDA Shigeru…

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