第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続...

7
福島の進路 2020. 2 31 昭和31年(1956)6月7日の地元紙に「福島の 風俗絵巻作る 野田村の大石源太郎さんが計画」 という見出しで 「南奥博物館の郷土資料が市役所に引取られて 無事に保存されることになって識者を安心させ たが、いま福島在の一老人が親子三代にわたっ て集めた福島近辺の江戸時代からいまに至るま での風俗絵図を一巻の絵巻物にまとめ、近く 『福島今昔物語』と名付けて福島市役所へ寄贈 する計画をたてている。(以下略)」 との記事が掲載されている。また、文久3年 (1863)に祖父遠藤嘉吉(母方の祖父嘉助の誤り) が描いた「柳町枡形より大隈川を隔て天世峰を望 む」を模写しており、さらに阿武隈川の水源地甲 子から河口の荒浜まで絵筆一管でスケッチしたそ れぞれの光景等もこの機会に『阿武隈川紀行』と して一緒に出す計画であると続けている(注1)。 大石源太郎(図1) 大石源太郎については、アートクラブ会員時代 柴田 俊彰 (しばた としあき) 福島市史編纂室 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続けた市井の画家~ 信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~ 信達の歴史シリーズⅢ ●●●●● 信達の歴史 を中心に、『福島洋画の曙』(注2)や『特集展示 100年前の展覧会』(注3)に詳しく紹介されてい るが、改めて大石源太郎の生涯を紹介する。 大石源太郎は、明治22年(1889)4月、父大石 源吉と母とみの長男として、現在の豊田町に生ま 図1 大石源太郎「自画像」(油彩) 大正6年(1917)6月

Transcript of 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続...

Page 1: 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続 …fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/...大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

福島の進路 2020.2 31

 昭和31年(1956)6月7日の地元紙に「福島の

風俗絵巻作る 野田村の大石源太郎さんが計画」

という見出しで

 �「南奥博物館の郷土資料が市役所に引取られて

無事に保存されることになって識者を安心させ

たが、いま福島在の一老人が親子三代にわたっ

て集めた福島近辺の江戸時代からいまに至るま

での風俗絵図を一巻の絵巻物にまとめ、近く

『福島今昔物語』と名付けて福島市役所へ寄贈

する計画をたてている。(以下略)」

との記事が掲載されている。また、文久3年

(1863)に祖父遠藤嘉吉(母方の祖父嘉助の誤り)

が描いた「柳町枡形より大隈川を隔て天世峰を望

む」を模写しており、さらに阿武隈川の水源地甲

子から河口の荒浜まで絵筆一管でスケッチしたそ

れぞれの光景等もこの機会に『阿武隈川紀行』と

して一緒に出す計画であると続けている(注1)。

大石源太郎(図1) 大石源太郎については、アートクラブ会員時代

柴田 俊彰(しばた としあき)

福島市史編纂室

第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻    ~故郷を描き続けた市井の画家~

信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~

信達の歴史シリーズⅢ●ら●み●た●●●●●信 達 の 歴 史●人●物●か

を中心に、『福島洋画の曙』(注2)や『特集展示

100年前の展覧会』(注3)に詳しく紹介されてい

るが、改めて大石源太郎の生涯を紹介する。

 大石源太郎は、明治22年(1889)4月、父大石

源吉と母とみの長男として、現在の豊田町に生ま

図1 大石源太郎「自画像」(油彩)大正6年(1917)6月

Page 2: 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続 …fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/...大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

福島の進路 2020.232

れた。明治32年(1899)7月の地元紙に、「好少

年 当町豊田町大石源蔵(源吉の誤り)の男源太

郎(十一)は第一小学の高等科一年生にて学業も

優等なるが書は殊に巧にして取分馬の画に堪能な

りと云ふが若松の展覧会へ出品する為馬を描かし

めたるに頗る上出来にして到底少年の作とは覚へ

ざる程なし」(注4)と紹介される程、少年時代

から絵が得意であったことがわかる。また、「二十

歳前の自分は質(家業)の帳場に座ってよく空想

の夢を見てはぼんやりとして居る事が多かった」

と書いており(明治38、39年)、好きな絵の道へ

進むことが容易でなかった時期があったことが窺

える。

 その後、明治41年(1908)頃度々上京して洋画

講習会に参加し、小林萬吉主宰の同舟舎で指導を

受けている。

アートクラブの時代(図2) 明治43年(1910)油井夫山(1884~1934)が中

心となり、県内初の美術団体である福島アートク

ラブが結成されるが、その際大石源太郎は堀江繁

太郎(1873~1946)、紺野三郎(1885~1918)、富

田不二夫(1886~1982)らとアートクラブの結成

会員となった。

 アートクラブ時代の大石源太郎については、注

1、注2に詳しく詳細は省略するが、堀江繁太郎

の『明治45年絵日記』にも、大石の訪問や大石の

写生に関する記述等があるなど、堀江との師事関

係がわかる。

 注1、注2によれば、大正8年(1919)にアー

トクラブを離れ、日本画家平林探溟に入門し、日

本画を学んだとされるが、大石の『絵手本画巻 

第一巻』には、「明治42年8月21才 狩野探溟先

生に入門 狩野派伝統の初歩として絵手本により

運筆の練習 墨の濃淡等の稽古をする 明治42年

入門以来大正11年6月74歳にて他界される迄15年

間先生に師事 号を北溟とし落款を寄与さる 昭

和39年10月76歳 大石北溟」とあり、アートクラ

ブ結成以前から狩野探溟に師事して日本画を学び、

大石はアートクラブ時代には洋画と日本画を同時

に学んでいたことになる。大正2年の展示会より、

苔寂の雅号を用いたといわれ(注2)、別に苔玄、

山牧が用いられた(注3)。

 大石は日々の出来事を日記に残しており、大正

4年(1915)の日記帳の表題は『質場日記覚帳』

とあり、大石が質屋の仕事をしながら、絵を学ん

でいたことがわかる。また大正6年(1917)の日

記には「墨画、墨画、自分は墨画だ」(6月20日)

と記され、この時期に自分の絵の方向性を見出し

つつあることが理解できる。

 さらに、大正7年(1918)6月29日の地元紙

(注5)には、福島競馬倶楽部初回競馬の第1初

日(6月28日)の記事と共に、大石の競馬の挿絵

「初日スケッチ」(版画)が掲載され、この時期に

は地元紙の挿図を担当していたことがわかる。

アートクラブ後(図3、図4) アートクラブを離れて以降、大石の展覧会等へ

の出品はなく、専ら日本画(南画風、水墨画)を

描くようになり、大正11年(1922)狩野探溟が他

信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~

図2 「初日スケッチ」大正7年(1918)6月29日 福島民報

Page 3: 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続 …fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/...大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

福島の進路 2020.2 33

 昭和53年(1978)2月89歳で亡くなる直前まで、

大石はふるさとを描き続けた市井の画家であった。

『福島今昔絵巻』(図5~8、10~11)(注7) 『福島今昔絵巻』(図5)は、全七巻(第一巻、

第一巻の続、第二~六巻)で構成され、大石が明

治・大正・昭和のふるさとを描き続けてきた膨大

な写生の集大成であり、当時の福島市や人々のく

らしを知る上で貴重な資料である。

 第一巻には、「福島今昔絵巻次第」として、「全

信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~

界するまで師事し、北溟の号を与えられている。

 また、大正11年の『過ギ行ク日々ノ記』には、

油井夫山との交流や堀江繁太郎への訪問が記され、

アートクラブを離れて以降も、会員との交流は続

いていたことがわかる。同年4月に、質屋を営み

ながら、父源吉が勤めていた福島商業銀行に勤務

するようになったこと、多忙の中で絵を描き続け

たことが記されている。

 その後も、福島市近郊の風景や人々のくらしを

描き続けており(図3)、日本画の伝統的画題の

作品も描いた。日記等から肖像画等の作成依頼が

多くあったことや、さらに龍鳳寺、到岸寺、櫻本

寺の襖絵作成を依頼されている。

 昭和39年(1964)5月12日の地元紙には、「福

島市腰浜町、竜鳳寺のフスマに、約四百年前から

伝わる寺宝やシダレサクラなどの絵を描きつづけ

ている人がいる。これを手がけているのは檀家の

大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

いるが、これは今月末に完成、そのあと吾妻連峰

の雪景をバックに同寺の前景を描くという。(以

下略)」(注6)と掲載されている(図4)。

図3 只見町での大石源太郎         いつものスケッチの道具を背負って

昭和36年(1961)5月

図4 龍鳳寺で襖絵を描く大石源太郎昭和39年(1964)5月

図5 福島今昔絵巻全巻

Page 4: 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続 …fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/...大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

福島の進路 2020.234

信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~

図9 福島市街鳥案内図 大正7年6月10日(福島市提供)

図6 文久時代   福島信夫橋景 遠藤嘉助写   (第一巻)   昭和26年5月

図7 信夫橋(第一巻の続)   昭和28年5月

図8 松齢橋(第二巻)   昭和26年9月

Page 5: 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続 …fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/...大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

福島の進路 2020.2 35

四巻として第一巻は先人の絵を縮図模写とし、第

二巻は大正6年より昭和26年迄の写生とし、第三

巻四巻は福島の明治明治末期より大正頃迄に街頭

初見や思出を筆のまにまに描しものなり」と記さ

れ、当初は全四巻での構想であったことがわかる。

 なお、第五巻には「明治末年より大正時代」、

第六巻には「大正時代の風俗 岡部、高湯、土湯

ノ写生」と巻首に記されている。

・第一巻(7作品 図6) 巻首には、遠藤柳齋

(嘉助)が描いた「文久三年 信夫橋の写生」(図

6)、明治15年(1882)御届の「福島県下岩代国

福島町境界大隈川紅葉山及舟橋真景之図」、「福島

県岩代国福島町信夫橋真景図」(明治18年)等6

点の模写と、明治18年(1885)頃の信夫橋の写真

模写で、昭和31年(1956)5月と記されている。

・第一巻の続(5作品 図7) 「信夫橋景 大正

7年、同全景 昭和28年、同南口 昭和26年、同

上より見たる景 同、松齢橋景 同31年」と巻首

にあり、三代目信夫橋(明治42年竣功)と四代目

信夫橋(昭和7年竣功)(図7)が描かれている。

「松齢橋景」には、四つ手網漁用と思われる台や

のどかな河岸の風景が描かれている。

・第二巻(4作品 図8) 「舟橋 大正6年4月、

福島大観 大正7年5月 弁天山より写生、松齢

橋 昭和25年5月、信夫橋 昭和26年9月 昭和

30年5月」と巻首にある。現松齢橋(大正14年竣

功)以前の舟橋を下流側から見て描いている。戦

後まもない松齢橋図には、四つ手網漁と共に「米

国進駐軍家族住宅の柵」が描かれている(図8)。

弁天山から福島市を眺望した「福島大観」は、信

夫山を背景に、阿武隈川の間に広がる福島市街を

描いた図である。翌月には、大石は、「福島大観」

同様弁天山からの眺望と思われる『福島市街鳥案

内図』(水彩画)(図9)を作成している。これは

福島市街地を詳細に描いた鳥瞰図で、当時の福島

市を知る上で貴重な資料である。

・第三巻(28作品 図10-①~⑤) 「福島の街頭

初見や思出の様々を順序も無く筆のまにまに描き

しもの 明治末頃より大正時代 昭和30年6月」

と巻首にあり、街頭の行商人(枝豆・唐辛子・あ

め売り等)や虚無僧の姿、子守や竹馬遊び、中村

呉服店(後の中合)の丁稚などの子供達の姿、当

時の稲荷神社祭礼の猿芝居、郷ノ目神楽一座等が

描かれている。

・第四巻(21作品 図10-⑥~⑧) 「明治33年頃

より大正時代迄の福島の景色の思出や写生、街頭

所見の様子を描く 昭和31年10月」と巻首にあり、

大石が生まれ育った豊田町の裏通りに面した「馬

頭観音」(明治30年)や、「馬頭観音前盆踊」(大

正3年)から、馬頭観音周辺の様子がわかる。ま

た天神渡しや隈畔の様子が描かれ、舟橋時代の橋

周辺(明治末期~大正初期)の絵も数点あり、当

時の様子を知ることができる。

・第五巻(13作品 図10-⑨~⑩) 「明治末年よ

り大正時代」と巻首にあり、「夜鷹そば」(明治42

年)、「軽便鉄道 豊田町通り」(大正4年)、「馬

頭観音」(明治43年)、「豊田町より仲間町への道」

(明治45年)等、主に豊田町周辺のまちの風景が

描かれている。

・第六巻(16作品 図11) 「大正時代の風俗 岡

部、高湯、土湯ノ写生」と巻首にある。「大正時

代の風俗」とあるように、日々のくらしの中か

ら、赤ん坊を背負いあやす母親、洗濯や張物、編

物、長唄稽古をする女性の姿が描かれている。ま

た、大正3年当時の岡部橋や岡部河岸の様子、明

治43年の土湯温泉や大正10年の玉子湯(高湯)も

描かれており、当時の土湯・高湯温泉等を知るこ

とができる。

『阿武隈川絵巻』ほか 昭和31年の新聞には、『福島今昔絵巻』と同時

に『阿武隈川紀行』も計画と掲載されているが、

『阿武隈川絵巻』としてまとめられた。

 『阿武隈川絵巻』は二巻で構成され、第一巻巻

首に「阿武隈川絵巻次第 明治44年より昭和31年

迄時折の写生を集めて全二巻とし懐旧の記念と

信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~

Page 6: 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続 …fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/...大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

福島の進路 2020.236

信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~

①お高祖づきん 明治40年頃 ②中村呉服店の小僧さん 大正元年 ③いちこ 大正2年

④飴うり 大正3年5月 ⑤子守 大正5年 ⑥須川所見 大正5年夏

⑦豊田町裏通り略図 明治30年頃

①~⑤ 第三巻⑥~⑧ 第四巻⑨~⑩ 第五巻

⑧馬頭観音前盆踊 大正3年8月

⑨夜鷹そば 明治42年9月 ⑩軽便鉄道 豊田町通り 大正4年11月図10

Page 7: 第11回 大石源太郎と福島今昔絵巻 ~故郷を描き続 …fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/...大石源太郎さん(75)で、いまはリュウを描いて

福島の進路 2020.2 37

信達の歴史シリーズⅢ ~人物からみた信達の歴史~

す」とあり、河口の荒浜(「荒浜之朝」)から、「丸

森之夕月」、「舟戸の秋」、「三本木渡」、「天神渡」

等、「信夫橋」まで15点の作品で構成されている。

第二巻は、「鳥谷野」から「蓬莱岩」、「安達ケ原

河岸」、「乙字滝」、「甲子温泉」等「阿武隈川上流」

まで16点の作品で、二巻とも昭和31年10月と記さ

れている。

 『福島今昔絵巻』、『阿武隈川絵巻』作成後、大

石は生涯もう一つの絵巻を作成している。『飯坂

湯野穴原今昔絵巻』で、巻首に「飯坂、湯野、穴

原の温泉には子供の頃より今年71歳になる迄 春

に夏に秋冬と幾度となく遊びて其都度の写生など

を此頃見るに世の移り変り面白く遠く文治の昔大

鳥城跡より元禄の世には芭蕉翁が旅など思い描き

て絵巻となす 昭和34年5月20日」とあり、「丸

山城跡」から「赤川滝」まで40点の明治~昭和の

作品で構成されている。飯坂温泉の変遷を知る上

で貴重な資料である。

 おわりに、本文作成にあたり、大石 尚氏(注

8)には詳細な資料提供を含め全面的にご協力い

ただいた。心から感謝申上げます。

【注】注1 昭和31年(1956)6月7日 福島民報夕刊注2� 『福島洋画の曙 アートクラブの変遷』(1993)福島市教育委員会

注3� 『特集展示 100年前の展覧会-アートクラブから二葉会へ』(2013)福島県立美術館

注4 明治32年(1899)7月27日 福島新聞注5 大正7年(1918)6月29日 福島民報注6 昭和39年(1964)5月12日 福島民報注7� 福島今昔絵巻各巻の全ての作品は紹介できないので、作品の題材ごとに選択して年代順に紹介するよう努めた。

注8� 大石 尚氏は大石源太郎氏の孫にあたり、遠藤柳齋の作品や大石源太郎氏の貴重な資料を福島市教育委員会に寄贈されている。図9以外の図は全て大石 尚氏提供によるものである。

図11(第六巻)

①松川橋の梨売り 大正2年11月 ②張物 大正3年4月③編物 大正3年

④洗濯 大正5年8月 ⑤雪こんこん 大正8年1月 ⑥土湯温泉入口 明治43年8月